私は直接はこの学校,、このクラブのことは知りませんでした。知った教師から、「一度はブラバンくらい見ときなはれ」と言われ、秋の体育祭で見せてもらいました。それ以来、一目置いてます!!


高校生活 大阪府高等学校生活指導研究会編 平成17年12月22日冬号より転載
人生の師はどこに・・・・
大阪府立淀川工業高等学校吹奏学部顧問 丸谷明夫
 2005年10月2日、名古屋国際会議場(センチュリーホール)、全日本吹奏楽コンクールで、淀工吹奏楽部の生徒たちは、信じられないような素晴らしい演奏をしてくれました。本番中、メンバー全員が演奏を楽しんでいるのがわかりました。演奏を終えた後にいただいた大きな拍手や歓声を聴いて、私達の『想い』が会場のお客さんにも伝わったのもよくわかりました。
 技術的には他校の奏者に劣るかもしれない生徒達が、こんなにも音楽を楽しむことができる。そんな演奏ができたのがうれしかったです。

 淀工には音楽の授業がありません。私も工業科の教員であり、音楽を専門的に学んだことはありません。部活動を通じて生徒達との喜怒哀楽の日々を過ごしています。

音楽との出会い
 終戦直後1945年9月、母の実家で疎開先だった滋賀県の琵琶湖湖畔で私は生まれました。その後、野田阪神(大阪市福島区)に移り、そこで育ちます。父は趣味でヴァイオリンを弾くおとなしい人でした。母はとても怖かったことを覚えています。家は母が長患いということもあって、苦しい経済状態にありました。貧困の中で多感な子ども時代を過ごしました。
 
 幼稚園の頃、野田阪神の夜店で小さなハーモニカを買ってもらいました。最初はそれを適当に吹いて遊んでいるだけでしたが、あるとき、父が「貸してみい」といって童謡の『靴が鳴る』を吹いてくれました。(おててつないで・・・・・)「へえ〜すごいことができるんや!」と大変驚きました。それが始めて自分が音楽?に目覚めた瞬間だったように思います。

《おぼろ月夜》と先生の涙
 
小学校に通っていた時、家から30分位の所にある梅田の阪急百貨店によく遊びに行きました。大好きだった手品コーナーの隣に「プリマトーネット」(オカリナを合理的に作ったリコーダーのようなもの)という楽器が売られていて、どうしても欲しくて、半年くらい待って、それを買ってもらいました。うれしくて一生懸命練習したことを覚えています。
 あるとき、「自分ができる楽器を演奏する」という授業があり、私はこの笛で《おぼろ月夜》を吹きました。(菜の花畑に・・・・)すると、
先生が涙を浮かべて「ほんとうにいい曲やねえ」といってくれたのです。このときの感動は今も忘れません。
 母が厳しかったからか、幼い頃はとても内気で物事をはっきり言えない子どもでした。授業で先生に当てられると、その答えが分かっていても顔が赤くなって何も言えませんでした。通知表にある先生のコメント欄には「おとなしすぎます。もっと積極的に行動しましょう」というようなことが書かれていました。

母の他界と自分の変化
 
しかし、内気だった私に転機が訪れました。それは小学校4年の時に母親が病気で亡くなったことに始まります。母は自分の短い運命を分かっていたのかもしれません。それで子どもには厳しいしつけをしていたように今は思います。
 母が亡くなったことで「自我」が芽生えてきたのでしょうか、何事にも積極的になっていきました。父の仕事は相変わらず忙しく、家に帰ってくるのが毎晩11時頃でした。弟達の世話をしつつ、ラジオを聴いたり、ハーモニカや笛を吹いたりして、寂しさを紛らわせながら、父の帰りを待ちました。
 そんな小学校時代を過ごしたあと、大阪市内の中学校に進みました。ちょうど学校に音楽部ができたばかりで、トロンボーンをはじめいろんな楽器を友達と演奏しました。一方、家計を助ける為にアルバイトにも明け暮れてました。そして、睡眠不足と栄養失調からか背が伸びるのがピタッと止まってしまい、小学校の頃は後ろの方に並んでいたのが、中学では前の方になってしまいました。
 
 とにかく、音楽が大好きだったので、高校からは専門の道に進みたかったのですが、家の事情でそれを許されず、早く技術を身に付けて社会の一員になろうと、近くの大阪府立西野田工業高校(電気科)に進学することになりました。

生徒を信頼してくれた先生
 
当時、西工は生徒の自主性を重んじる自由な校風と質実剛健で頼りがいのある先輩に囲まれ、急に大人になった感じがしました。個性豊かで職人の魂を持った先生方の生き方に深い敬意を抱きながら、工業高校生としての誇りを持っていたように思います。
 高校時代は、やはり家計を助けるためにアルバイトをしつつ、吹奏楽の世界にどっぷりつかりました。幸い、近くに中央卸売市場があったので、朝3時に起きて始業ギリギリまでバイトをしました。音楽部の顧問であった高津卯一郎先生は社会科の先生で、1年生の時のクラス担任でもありました。私が入学金や授業料を払えない時でも、やさしく対応してくださいました。
 先生は部活の指導には全く口を出さず、いつも微笑んでおられるだけで生徒主導で部活をまかせてくれました。
 2年生の時、先輩の勧めで私が指揮をすることになりました。何度もタクトを振る中で、一人一人の出す音がピタリと合ったその瞬間、思いもよらない音が生まれるということを実感することができました。
 とにかく、演奏面のみならず、運営面もすべて自分たちの手によるものでしたので、失敗をしながらいろんな世界を知ることができましたのは、貴重な体験でした。
 一方で、漫才や落語など芸能の世界にもはまり、コンサート以上に寄席通いを始めたのもこの頃でした。
 高校3年になっても、音楽大学へ進みたいという気持ちは変わらず、ある先生に相談したところ、「音楽を職業にするには『才能』『お金』『運』の3つがないと難しい」と言われました。自分には3つともないと思い、音大進学を断念して働くことにしました。

 文字にするとこの位ですが、辛い辛いことでした。電気代やガス代が払えず、止められてしまう。この生活がいつまで続くのか、針の穴ほどの光も見出せず、自分は何のために生きているのか、ここには書けないこともたくさんあり、世間を恨んだりもしました。
 とにかく、貧困とアルバイトによる睡眠不足の中での少年時代でした。「若い時の苦労は買ってでもしいや!」と近所の人は慰めてくれましたが、「それなら自分の子どもに苦労させたらええのに」と思ってました。でも、今頃になってその意味が少し分かってきました。父親は小・中・高と12年間一度も学校には来ませんでした。今も淀工吹奏楽部で「父母の会」を作らないようにお願いしているのは、この辺のことが影響しているのかもしれません。

 最後に、私の好きな友人の言葉の受け売りですが、みなさんに伝えたいことがあります.
 これからいろいろなことを体験し、本当に嫌になることもたくさんあると思います。誰も自分のことなど、分かってくれないと自暴自虐になることがあるかもしれません。しかし、きちんと話を分かってくれる人はどこかにいます。自分の周りでそれをしっかり受け止めてくれる人を探すこともして欲しいのです。それはもしかしたら、同世代の人かしれないし、年下だってあるかもしれない。同姓かもしれないし異性かもしれない。本当にうんざりすることの多い中ですが、その中でも、しっかり生きている人はどんな場所にも、どんな分野にもいると思います。どこかで誰かが、世界中で一人でも、自分のことを分かってくれる人が居ると思って頑張って欲しいのです。私はそう考えることで、人生の師と思える人と出会うことができ、素晴らしい生徒たちと接することが出来ました。
 だんだん説教じみてきましたのでもうやめますが、心の底から皆さんがこれからもよい出会いをされることを願ってます。
 もし、暇になったら?昔やっていた寄席文字を書くこと、奇術(手品)、模型製作、カメラ・・・・・そう!ハーレーにも乗りたいですね。、

 
何しても中途半端の私などが口を挟むすき間もございません。そのまま、載せさせてもらいました。

私は教師嫌い!
でなかなか、そこらに落ちている教師の書いたものを読んでも聴いても、風呂の屁ですが、この文章は違います。
 

何回読んでも、ジーンと来ます。

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