九五式小型乗用車(くろがね四起


いまさら述べるまでもなく、 第一次世界大戦から第二次世界大戦前後における

日本の自動車工業は、アメリカやドイツ等工業先進国に比べると著しく遅れており、

特に生産技術、生産設備、部品工業といった面での格差は著しいものがあった。



 

 しかしながら、小型四輪駆動車という分野に限定して眺めてみると、その発端と

原動力は諸外国と同様軍の要請であったが、少数の優れた技術者の努力によって、

ジープより数年も前に開発が進められ、量産に移行していた事実があったことは、

日本の自動車工業に関心を持つ者にとってはまったく救われる思いがする。
1934年(昭和9年)5月、日本内燃機KKでオートバイや軍用側車並びにオート3輪の設計製造を行っていた蒔田氏は、当時陸軍で自動車の研究を担当していた

「陸軍自動車学校研究部」の前野主事から呼び出され普通の自動車は動力がまず後輪に伝えられ、後輪が回転して車を推進し、それによって前輪もまた回転を開始

するというものであるが、軍用自動車としては単にそれでは、はなはだものたりない。後輪が回転して車を推進するとともに、前輪も自ら回転を開始し、車を前にかき

進め、いかなる土地でも進み得る車を考案、設計して欲しい。」 という抽象的な表現で四輪起動小型乗用車の設計、試作の依頼を受けた。もちろん、日本内燃機の他

各社にも依頼したことは言うまでもない。
 
 




 その結果、実用にこぎ着けたのは「くろがね四起」と「いすゞPK」である。

ただ、これらの車に限らず、その後に行われた4WDの競争試作や、個々の開

発車等を含めると、その種類は相当数に上り、又、各々に技術的必然性を感じ

させるものがある。



























 陸王やダイハツ等すぐれた素質を持ちながらも、時局がらその多くが試作の

段階で終わらざるを得なかったのは、自動車工学の面からみても真に惜しまれる

ところである。

 
 

 内装は内張りなどまったくないのは軍用車として当然のことであるが、「燃料槽」と

呼ばれる52リットル入りのガソリンタンクは、完全に上下に2分され「主」は39リットル

で上部に入る。したがって注入口も左右対称に位置に二個ついており、主と副の切り

替えは運転席からコックによって行われる。ポンプは電磁式である。
 

 昭和15年8月に発表された改造型、外観は一新され近代化が計られた。

このとき、従来のものが2+2人乗りであったのを完全に4人乗りに改めるとともに内

部にも相当の手が入れらた。
 

 乗用型改造と同時に「小型貨物自動車」も戦列に加わった。

シャシーとフロント周りは乗用車と同一で、このサイズの4WDトラックは世界的に珍

しい存在である。
 
 95式クロガネ号は結局、支那事変、ノモンハン事件、大東亜戦争と全期間を通じて陸海軍の主力乗用車として使われることとなり、1955年(昭和10年)に
5台が作られて以来、終戦までの10年間に4775台(内陸軍4275台、海軍480台)生産され、最盛期の1939年から1941年(昭和14から16年)には年産
850台になったが、1944年には230台に減じ、終戦の年には遂に1台も生産されなかった。 


 戦時中において、日本の自動車生産が最も伸びた1941年には、ニッサン、トヨタ、いすゞ等合計43000台であったというからクロガネ四起の同年850台とい
う生産は、そう簡単に無視できるだいすうではない。しかし、この車の
総生産台数4,775台は、ほぼ同格のドイツのキューベルワーゲン(2WD)の64,000台、
米国のジープの639,245台
に比べると、各々10倍、100倍という大きな比率となり、その差はやはりはなはだしいものであって、ここにも彼我の工業力の大き
な差を率直に認めないわけにはいかない。


 当時の日本の自動車がいずれもがそうであったように、この車も車体は梁瀬自動車へ外注されており、一貫生産というにはほど遠く、これらも能率を阻害す
るひとつの原因になっていたことは否定できない。この「ボディーは外注」という日本の自動車工業の姿勢は、戦後もなお10年近くも続いていたのである。 


 自動車工業は総合産業である。設計技術だけではよい車は出来ないことは今更述べるまでもないが、乏しい経験の中からこのクロガネにしろ、陸王やいすゞ
にしろ独創的なメカニズムを採用し、しかも

        ジープに先立つこと約6年
にして最初からその成果が認められる車を
        作ったという事実は、たしかに日本の自動車工業史の一頁を飾る快挙


                                                 
             といってよかろう!! 




そしてもう一つ!

九八式四輪起動乗用車(いすゞPK-10


いすゞPK-10型

 くろがね四起の他にもっと乗用車的な4WDが量産されていた事実は意外と知られていない。これはいすゞ自動車の前身に相当する会社によって作られた”
98式四輪起動乗用車”であるが、この車の生い立ちを述べるためにはどうしても同社の歴史に触れなければならない。
 
 東京石川島造船自動車部は、1929年(昭和4年)KK石川島自動車製作所として独立し、1932年(昭和7年)5月には商工省標準式、TX型トラック及びBX型バ
スの試作を完成させた。この車のエンジンは石川島自動車製作所が設計を担当したもので、水冷6cyl、4,390ccのサイドバルブ式であったが、7ベアリングを有
するガソリンエンジンで2800rpm時に最高70psを出し、Ⅹ型機関と呼ばれた。1933年(昭和8年)3月、同社はダット自動車製造KKを合併して社名を「自動車工
業KK」と改め、同年4月には3種類の乗用車スミダH型、J型、K型の製造を開始した。スミダH型はガソリンエンジンを積んだ4×2で官需、民需を対象としたが、
ともに販売開拓はあまり出来なかった。スミダJ型は7人乗りの幌型4×2で、X型エンジンをマグネトー点火式にしたXA型エンジンを載せており、軍用指揮官車と
して採用され”九三式四輪乗用車”と呼ばれた。
 
 スミダK型はベンツG4を思わせるウォームギア式タンデム・アクスルによる後4輪駆動の6×4で、陸軍制式”九三式六輪乗用車”と呼ばれ、J型とK型はその後
も多数生産された。
 

K型6×4は悪路における駆動力はまさっていても複雑で重く、価格も高いことから同社は陸軍よりK型に代わる4輪起動指揮官車の製作の依頼を受けた。この動
機はくろがね四起の成功による影響が大きかったものと想像されるが、同社はJ型乗用車をベースに試作を進め1937年(昭和12年)3月8日JC型乗用車を完成
させた。これは陸軍制式”九八式四輪起動乗用車”と呼ばれ採用された。エンジンはX型に若干の改良を行い、12V仕様のコイル点火に改めた4,390ccのXDガ
ソリンエンジンが使用され、車体は脇田自動車(現・日野車体工業KK)で架装された。
 
 この車は車重2200kg、トレッドは前後とも1,550mmで3,300mmのロングホイルベースではあったが、最低地上高は260mmも取ってあり、悪路での接地に
対する配慮もなされていた。変速機は選択摺動式4F・1Rで、ギア比は1速6.15、2速3.17、3速1.79、4速は直結であった。このことから1速は完全にエマ―ジェン
シ―・ローであることがわかる。これは次のトランスファーにより更に1.37倍されて8.43となり、3.71の終減速比を掛け合わせると1速は31.25の総減速比に達す
るものであった。
 
  
 前車軸のジョイントはトラクタ型等速ジョイントが使われていたが、キングピン角とキャスター角は0度となっていた。これは操縦性やキックバック(路面の凹凸
により、ハンドルが車輪側から回される現象)の面からあまり好ましいことではあるが、専用工作機械を使わずにここにわずかな角度をつける加工はいずれにして
も面倒な作業で、直角の加工で済むキングピン角0度は、当時の生産規模からすればやむを得ぬものであろう。なお、ジープの前車軸回りもJC型と似たようなも
のであったが、7.5度のキングピン角と1.5度のキャスター角がつけられていた。生産量の問題と解釈すべきであろう。
 
 JC型の運転席の床には5本のレバーが立ち並んでおり、まずフロアー・シフトのチェンジレバーがあり、その右側にハンドブレーキレバーがある。又左側には
3本のレバーがきちんと並んでいて、右側から前輪を駆動するための4WDレバー、次はフロントのデフをロックするためのレバー、一番左はリアのデフをロックす
るためのレバーである。すなわちJCは4WDであるとともに前後輪ともメカニカル・デフ・ロック付きであった。

 このJC型乗用車は194年9月、マイナーチェンジが施され、先のスミダXD型を改良した「いすゞA40A型」エンジンを積んで”PK-10型”と改称され、翌
1941年11月には「いすゞDA70型」水冷4cyl、3400㏄、53PS/2600rpmのディゼルエンジンを載せた"PK-50型”四輪起動ディーゼル乗用車が追加された。こ
のDA40型強制水冷6cyl、5100cc、90PS/2600rpmを4cylにしたものであった。
 
  

 以後陸軍の制式名称はPK-10型ガソリン乗用車”が、”98式4輪起動車(甲)”、”PK-50型ディーゼル乗用車”が、”98式四輪起動乗用車(乙)”と名づけられ、
終戦までの8年間に合計15048台生産され、最盛期の昭和16年にはPKだけで2826台に達した。

 この車は米軍ではミディアムないしヘビー・タイプと称せられたビュイック、パッカード、クライスラーに相当するサイズであったが、米軍はそのほかにジープ
やウエポンキャリア等を状況に合わせて使い分けていたわけであるから、日本のJC 、PKはその両方の役を果たさねばならず、相当きびしい使われ方をされて
いたと思われる。

 日本で量産化された軍用小型4WDは、生産の規模の大小は別にしても、”くろがね四起”と”いすゞPK”のみであったことは若干厳しい気もするが、いずれも軍
用自動車として技術の全力を傾注して作ったという見方からすると、当時の日本の自動車工業の技術レベルを知る車としても、ともに歴史に残しておくべきであろう。

 なお、スミダJCが生産され始める更に5年前の1932年(昭和7年)、陸軍の要請で三菱造船KK神戸造船所で”ふそうPX33型”といわれるJCと同類の幌型四
輪起動乗用車が3台製作され、エンジンは70PSのディーゼルエンジンであったという記録もある。だが昭和7年に自動車用ディーゼルエンジンが作られた記録は
なく、舶用ディーゼルの転用であろうとの推定もされているが、いずれも定かでない。
 

ふそうPX33型


 







  出典:影山 夙著 走れ!四輪駆動車 山海堂 昭和53年
 

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